「萌え」と剣は本日で一旦終了です。長い間のご愛読、本当にありがとうございました!  更新日5月30日
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「萌え」と剣 第六章
夜はすっかり更けて街の中心部を歩いているはずなのだが、人影はない。
私と父の靴音だけがビルに反響する。
明かりが灯っているのは街灯のみで、
今はビルを覆うアニメーションのキャラクターは暗闇と同化している。
隣を歩く父は私を振り向き、

「あと三分くらいでオレのマンションに着く。」

と言うと、ワインが入った紙袋を持った手で斜め前を指差した。
その方向に父の住処があると言いたいのだろう。
私は頷くと

「マンションは広いのですか?」

と尋ねた。すると父は首を横に振りながら

「そんなに広くはないワンルームマンションだ。
 もっとも寝に帰るだけの部屋だからもう少し狭くてもいいくらいなんだがな。」

と答えた。
私は何となくだが、父の部屋はシンプルで小綺麗にしているんだろうな、と思った。
一見無頓着そうだが実質は几帳面な性格な事を、私は見抜いている。

「お前、酒癖悪くないって言ってたよな?あれ、本当だろうな?」

唐突に父が尋ねてきたが、理由が掴めない。
自分の酒席での行動を改めて思い返しても、
特に目立った奇行がなければ記憶があやふやになった事もない。
曖昧に「問題はないかと」と答えると、父はわざと重々しい声で

「オレ、泣き上戸の奴って苦手なんだよ。」

と言った。
その言葉を聞いた私の顔色は瞬く間に朱色に染まってしまった。
父は先ほどの安倍酒店での一件を担ぎ上げたのである。
その証拠に父の鼻の下がヒクヒク笑っている。
私は恥ずかしさと悔しさで頬が痙攣しているのがわかった。
あれだけ真剣な出来事を冗談にしてしまう父の無神経さにほとほと呆れながら、
その一方でお互い間にあった深い溝が今やすっかり埋まっている事を感じていた。
まさに雨降って地固まる、である。

散々泣き叫び尽くして私の気持ちが落ち着くまでだいぶ長い時間を費やしてしまった。
しかしそれまでの間、父はずっと抱擁をし続けてくれて安倍苗子は何も言わず見守ってくれた。
涙も乾き平常心を取り戻した私はおずおずと父から身を離し、
取り乱した自分を諫め神妙に父に詫びた。
しかしその刹那、安倍苗子の怒号が店内に飛び交った。

「邦夫!あんたわかっているのかい!
 本来ならばここであんたは息子にボッコボコに殴られるはずだったんだよ!
 それが何だい!?この子は怒るどころかあんたを許し、あまつさえ謝ってやがる!!
 あんたは自分の息子に救われたんだよ!そこんとこ、よく胸に刻みつけときな!」

尋常ではない威圧感の持ち主である店主に怒鳴り散らされ、
父はぐうの音も出ないほど俯いてしまった。
私はそんな父を少し不憫に感じたが、店主はそんな私を目を細めて見つめ

「あんたもよっぽど辛い思いをしてきたとは思うけど正直に真っ直ぐに育ったね。
 きっと母親の躾が良かったんだろうよ。
 困った事があったらいつでもここにおいで。婆が力になってやるよ。」

と、黄ばんだ歯をにっと覗かせ微笑んだ。
そしてそのままの笑みを意地悪そうに歪め

「それに邦夫の弱点も掴めたことだし。
 これからしばらくは今日のことをネタにからかってやろうかね、デレクター?」

と言い、カラカラと笑った。
それを聞いた父が「ディレクトゥールだ!クソババア!」と反撃したので、
それが可笑しくてつい私も吹き出してしまった。
しばらくは三人、安倍酒店で大いに笑いあった。


思えば安倍苗子があの時に父の過去を暴露していなければ、
父と消えないわだかまりを抱えたままだったかもしれない。
その点に関してはあの女性店主に感謝を述べるべきであろう。
しかし今にして思えば不思議な出来事だった。
私は安倍苗子がわざとその話題に触れた気がしてならない。
父とよっぽど親しい間柄だということは言葉の端々から感じられた。
メイド達もそうだが安部苗子も然り、父の近辺にいる女性は油断ならない人物が多い。
それに店主のあの得体の知れない迫力はただ者ではない。
私は顔が上気している自分を疎ましく感じつつ、口元までにやけ始めた父に尋ねてみた。

「父上。さっきの酒屋の店主、あの方は一体何者でありますか?」

「あの婆さんか。良く言えば秋葉原のガーディアン。悪く言えばヤクザだ。」

口角が緩んでいたためか弾んだような声で軽く答えたが、
何やら穏やかでない単語が混じっていた事を聞き逃さなかった。

「…ヤクザ、ですか。」

私の背中に一瞬冷たいものが走った。

「そうだ。このオタクと家電の聖地と呼ばれる秋葉原は実際のところ欲望の坩堝でもある。
 普通の女の子にとっちゃあそんなに安全な街ではない。
 特にうちのメイズは可愛い子ちゃんばっかりだから危険がいっぱいなんよ。
 だからそんな不届きな輩を取り締まるガーディアンの元締めがあの婆さんってわけ。
 仲良くしてて損はないだろ?」

私はメイド喫茶やバーで働くメイド達を思い出した。
確かに見目麗しくフリルをふんだんにあしらった魅惑的な衣装を身にまとった彼女達にとって、
この破廉恥な街はまさに野獣の檻のようなものだろう。
良からぬ事を企む輩がいてもおかしくない。

「しかしあの店主がヤクザというのならば、見返り無くして守護する事はまず有り得ないのでは?」

言ってしまった後、私はしまったと思い口を閉ざした。
少し奥まった話になり過ぎたと自重したが、
父は気にすることなくまた口元を緩ませると苦笑混じりに答えた。

「そりゃそうさ。ここだけの話だがな、ある程度の額は上納している。
 倫理観を問われるかも知れないがオレは気にしない。」

その後のセリフを口にした父を見て、私は一瞬たじろいだ。

「オレはどんな手を駆使しようともメイズを護らなきゃならない。
 そのためにはなりふり構ってらんないのさ。
 綺麗事で救われるのは精々安いプライドくらいだ。」

瞳の奥にある刺すような冷たい光が父の頑なな意志を物語っていた。
そう、父にとってメイド喫茶は夢の結晶であり宝物なのだ。
ただ作って満足するようでは単なる霧散する夢幻である。
守護し維持してこそ初めて、水のように手の隙間をすり抜けていくような夢は結晶となる。
私の両目から視線を外し「覚えておけ」と呟く父を見て、私は喉音を立てて息を飲んだ。
少しシワが目立ち始めた壮年の横顔は、父であり人生の先輩でもある男の教訓を含んでいた。

それから数分歩き、父が指差す先に縦に細長いマンションがあった。
どうやらそこが父の住処らしい。
近辺のビルに比べ頭一つ抜きん出ているマンションを眺めながら、父は目を細め言った。

「今住んでいるあのマンション。オレが初めて東京に出て来た時に働いた現場だったんだ。
 当時はとりあえず金が無くてね、力仕事でも手っ取り早く収入が欲しかったよ。」

これは甚だしく意外だった。
私の勝手な想像では、父はずっとサービス関連の仕事一筋な人だと思っていた。
その事を素直に伝えると、父は低く声を立てて笑った。

「そりゃ生活が落ち着いてからはそういうホテルとかレストランで働けるようになったけど、
 それまでは結構いろんな仕事をやってみたよ。
 道路工事現場にトラック運転手とかやっぱり体を使う仕事はキツかったな。
 保険や証券の営業は意外と金になって良かったけど好きじゃなかった。
 漫画家のアシスタントは辛かったけど面白かった!
 本屋の卸売業も興味深いもんだったよ。それから…」

次から次へとありとあらゆる職業が父の口から飛び出す。
おおよその仕事を網羅したのではないかと尊敬にも似た呆れ顔で、昔を懐かしむ父を眺めていた。

「ところで何故に父上は上京されたのですか?」

そもそも私は父がどこの土地で生まれ、どこの土地で育ってきたのか知らない。
生憎、地元には母の親戚しかいない。
この土地の縁者に頼って上京したのだろうか?

「オレ、生まれは熊本だよ。知らなかったっけ?」

私は返事の代わりに首を横に振った。道理で父の親戚筋とは面識がないはずだ。
熊本では遠すぎる。

「では何故に東京へ?やはり求職に事欠かないからでございますか?」

「それもある。ただ一番の理由は深夜アニメが確実に見れる事かな。」

したり顔でそう言い切った父から私は目を逸らした。
漫画の類を好まない私にとって父の発言は理解し難い。
と言うよりは聞かなかった事にしたい。
父がこの電気街に住居を構える理由が何となくわかってしまう事に、微かな苛立ちを覚える。
それより話ついでに前々から気にかけていた事を尋ねてみた。

「父上はメイド喫茶をご自分の夢だとおっしゃいましたが、
 理想のサービスを実現化するならホテル経営やレストランでも宜しかったのでは?
 何故にメイドなのでございますか?」

「愚問だな。メイドが好きだからに決まっているだろうが!」

話題を変えるつもりで投げかけた質問だったのだが、あまり変わらなかった事に心中落胆した。
父ならば私がはかり得ない深い理由や経営上の戦略を拵えていると思ったが…。
得てして灰汁の強い人物というのはかようなものである。
思慮深いところは深く、浅いところは浅い。
それもまた真理かと思いつつ、私の反応を不満げな父を横目に小さな溜め息をついた。


オートロック式のエントランスを抜け、
長いエレベーターを降りると父は正面のドアの施錠を外し、私を中に導き入れた。
洋式なので靴は脱がなくても良いとの事なので、
下足のまま中に一足踏み入れた私は思わず感嘆の声を上げた。
白と黒のモノトーンカラーで統一された室内は家具の他に一切余計なものはなく
とてもシンプルだが、逆にファッション性を高めている。
正面の壁を制する大きな窓ガラスからは夜景が見える。
まるでどこかのホテルのラウンジのような佇まいだ。
圧巻され立ち尽くす私に、父は着替えてくるからソファーに座って待つよう言い渡し、
隣の部屋に消えていった。
私は目に映る全てが新鮮で、田舎者丸出しで部屋のあちこちを見回した。
対面式のキッチンには、磨き上げられた鍋やフライパンが整然と並んでいる。
壁面には多種多様な香辛料がこれまた整然と並べられている。
父は寝るだけの部屋と言っていたが、とんでもない。
水場という場所はそれこそ清水と同じで、動きが滞ると濁ってしまう。
頻繁にキッチンを使ってないと、こうまで綺麗にならない。
想像以上に整頓された室内に感心していると、父が入っていった部屋とはまた別の扉があった。
トイレかバスルームかと思い、特に他意無く扉を開けて、室内を一瞥すると私は直ぐに扉を閉めた。
そしてリビングにあるソファーに深々と腰を掛けながら、
以前何かで読んだ小説の一文を思い出した。

『和解より理解の方が困難である。』

長年離れ離れになっていた父と紆余曲折の末、
互いの間にうずくまっていたわだかまりはすっかり氷解したが、
だからといって父の全てを受け入れた訳ではない。
相変わらずの軽薄な物言いには辟易としてしまうし、
もう少し品行良正な振る舞いを心掛けて欲しい。
他人の趣味にまでとやかく口出ししたくはないが、
アニメーションキャラクターのフィギュアが部屋の壁一面に飾らているのは
頂けないし、理解し難い。

私を待たせたきり、なかなかリビングにこないと思っていた父は、
黒のベストにソムリエエプロン姿からラフなポロシャツに着替えて出てきた。
しかも整髪料でしっかりオールバックに固めた髪は濡れ、ほぐれている。
どうやらバスルームはそちらの部屋だったらしい。
父はそのままキッチンからワイングラスを二つ取り出した。
右手にグラス、左手にボトルを持ち颯爽と歩く姿はまさしく熟練のサービスマンだ。
ソファーに座りながら父は

「お前、剣道やってただろう?」

と聞くと、父は返事を待たずテーブルに常備されているソムリエナイフで
ワインの蓋を器用に開栓し始めた。
ソムリエナイフが始めからテーブルにあったということは、
ここではワインを飲んでいるという証拠である。
この部屋が、父が誰をでもなく自分だけを相手に出来る空間なのだろう。
確かに私は学生時代に剣道を修めたが、それを言い当てた父にさほど驚かなかった。
長年接客業に携わってる人間は、一目見ただけでその人の職業や遍歴を知ることが出来るという。
父ならばそれが出来てもおかしい事はない。
なかなか答えを言わない私に気にかけず、グラスにワインを注ぎながら父は種明かしを披露した。

「武道をしていたサービスマンは音を立てず摺り足で歩く癖がある。」

なるほど、と納得してワインが満たされたグラスを持ち上げると、
父もグラスを掲げ私にグラスを近付けた。
私は軽く頭を下げ父の持つグラスの下部に自分のグラスを当てると、
父は微笑みながら「再会に感謝を込めて」と小さく呟いた。
澄んだ硝子音が控えめに部屋中に響き渡る。
私はグラスを口に運ぶ前に、もう一度グラスに入った赤い液体をじっくり眺めた。
斜めにしたときに軽くグラス表面に軌跡を描くのはワインがなおも熟成を続けている証拠。
きちんとヴィンテージがついたワインを目の前にするのは初めてで、
私は自分の心臓が高ぶっているのを感じていた。
ワインは割と好んで嗜む方だが、いかんせん貧窮のためそんなに価なものは飲めるはずもない。
後学と自分に言い聞かせ、たまに奮発してワンランク上のものに手を伸ばすこともあるが、
精々五千円程度。
万単位のワインなど名前を見聞きするだけで恐縮してしまうほど、夢の世界の話だ。
それが今、オーパスワンの80年ものが目の前のグラスで私に飲まれる事を待っている。
卑しくも一口幾らかと換算してしまう自分がいる。
私は未だに口に運べずに、いたずらに手の上でグラスを持て余していたが、
グラス越しに父と目があった。
私の心中がよっぽど容易に見透かされてしまっているのだろう。
口元を歪め嘲笑した顔で優越感に浸っている。
思春期の青臭い息子を見守ってると言わんばかりのその姿が癪に触り、
私は父からグラスの中のワインに視線を移した。
そして一口含み、ゆっくりと喉の奥に流し込む。
その瞬間、口元から全身にかけて歓喜にも似た衝撃が響き渡った。
「美味い」などという簡素な言葉では表現しきれない、
味覚を超越した何かが確かに今、舌の上を通り抜けていった。
これまで飲んできたワインが一本のバイオリンの音色だすると、
このオーパスワンは交響曲を奏でるオーケストラだ。
それほど重厚で優雅なワインだった。
夢中になりすぐにもう一口飲む私を父は満足げに目を細めながら、
手元のワイングラスをテーブルに置いた。

「実はお前に渡したい物があったんだ。」

アルコールより先にそのワインが持つ魅惑に酔わされた私は、浮ついた頭で父の言葉を聞いた。
私の反応が予想外に上々だったのだろう。
父は小さく吹き出しながら席を立った。
私に話題たい物とは何だろう?と高揚する脳みそで考えながら父の背中を目で追ったが、
次の瞬間。一気に正気を取り戻した。
先程、私が開けた部屋に父が入っていったのである。
体中に悪寒が走るのを感じながらも、それはないだろうと心の中で葛藤を繰り返した。
私にそういった趣味が一切無いことは賢明な父ならば重々承知なはずである。
しかし、親というものは得てして我が子に価値観の共有を押しつけがちになるのも事実。
兎に角、そういった類のものに嫌悪感しか抱かない私には、切に御免被りたい。

まるで判決を待つ被告人のようにこれから起こる事態に身を堅くしていると、
長い袱紗に包まれた棒状のものを携えた父がその部屋から出てきた。
私は内心安堵したが、顔は神妙なままだったらしい。
不思議そうに私を見つめる父はソファーに腰をうずめ「お前、剣道何段?」と尋ねた。
またもや唐突な問い掛けに私は訝しみながら「四段でございます」と答えようとしたが、
「ござい」のところで言葉を止めてしまった。
話しながら解いていた袱紗の中身が露わになった瞬間。
私の心臓が一瞬収縮し、それから大きく暴れ始めたからである。
無造作に解いた袱紗をテーブルに置いた父の手に握られているものは、
白木に納められた日本刀だった。
直線よりやや反りがある造形で刀だとわかったが、たぶん中身は真剣だ。
過去に一度だけ直に真剣に触れた事がある。
本来畏怖すべき殺気が抜き身の刀身から放たれ、魂を鷲掴みにして離さない。
その時に感じた胸の震えは今も忘れられない。
あの時の感触が、白木越しに伝わってくる。

「前に俺が通っている居合道場に一人の若い刀匠が訪ねてきた事があった。
 いや、刀匠なんて呼べるもんじゃない。まだまだ修行中の若僧だった。
 そいつと話す機会があってね、その時に生意気にもその若僧が言いやがった。
 『俺は人を切るための刀を打ちたいんだ』って。
 正直馬鹿だと思ったよ。今の世の中、そんなものを必要としている人間なんかいない。
 俺が一番嫌いなタイプだった。
 でも、イヤに勝ち気で自信満々に言うもんだから面白そうで一振り打ってもらった。
 それがこれだ。」

そういうと父は右手で刀を掴み「鑑定してみるか?」と差し出した。

「いや、しかし、私は正しい作法を存じておりません…。」

「段を持ってるんだったら大丈夫だ。それに見ているのは俺一人だから気にする事はない。」

冬にも関わらず背中に汗が伝うのがわかった。
私は自分の意志とは裏腹に、いつの間にか小刻みに震える手を刀に伸ばしていた。
その様子を満足げな表情で確認した父は、私に刀を手渡した。
約1.5キロの重さを持つ刀が更にずっしりと重量感を増す。
私は両手で刀を持つと額に押し頂き立ち上がった。
手だけでなく足まで震えがきている事に初めて気付いた。
しかし私はそれを恥だとは感じない。
若かりし頃、剣道の大会で対峙する宿敵への恐れを打ち消す為に、
怯む己の魂を鼓舞する為に、幾度と無く体験した震えだ。
武者震いを起こすほど魂が飢えて求める。鍛え抜かれた鉄の塊を解き放て、と。
私は渇望にも似た気持ちを抑えきれず、ゆっくりと鞘から刀身を引き抜いた。
柄を握った左手に力がこもる。
抜き放たれた刀身は、鉛色の鈍い光を携えていた。
峰に浮かぶ刃紋は凪の海のように真っ直ぐ線を引く。
切っ先に触れなくても全てを切り裂く程の威圧感を持つ刀身に、
魂だけでなく心臓ごと引かれてしまいそうだ。
世界で最も高い強靱さと切れ味の鋭さを持つと言われる刃物「日本刀」。
人を殺める為の道具という枠を超越して日本人の魂の象徴にまで昇華させた芸術品に、
私はただただ魅了されていた。
目の前に掲げた刀に心を奪われていたのか、
いつの間にか父が隣に立っている事に私は気付かなかった。

「刀を握り締めたまま動かなくなってるもんだから石像になったかと思ったよ。」

不思議なものを見るように私に言うと父は声を出さずに口を開けて笑った。
私は慌てながらも慎重な手つきで刀を鞘に戻し、もう一度額に押し頂いて父に返した。

「父上は何段をお持ちでいらっしゃるのですか?」

銃刀法では真剣を保持するに当たり役所への届け出が必要になる。
それとは別に、基本的には剣道あるいは居合いや抜刀道の有段者でなければ
真剣を保持できない事になっていたはずだ。

「オレは居合で二段。最近さぼり気味だから上達が難しくてね。」

そういうと父は左手で刀を持ち腰の脇に収めると「一振り見せようか?」と聞いてきた。
願っても無いことだと思い、短く「是非」と答えると、父は小さく頷き、私に向かって手の平を見せた。
離れてろ、という合図だろう。私が大きく二、三歩退くのを確認すると、父は瞼を閉じた。
私はちょうど父の左側に立っていたので、
左手で鞘を押さえ右手を刀の柄を握り締めた父の半身が目に映っていた。
居合はテレビで見た事しかなかったので、
これからどういう動作に移るのだろうと思案していた次の瞬間。
大きく目を見開き気合いを発した父の腰が沈んだと思った刹那、父の体の真横を何かが一閃した。
なにが起きたのか分からず呆気に取られたが、
いつの間にか父の右手の先に抜き身の刀身が鈍い光を放っているのを見て、
私は父が目にも止まらぬ速さで抜刀を行った事に気付いた。
学生時代は持ち前の瞬発力を武器に勝ち進んできたという自負があったが、
実際に今、父の正面に対峙していたら一寸も反応できなかっただろう。
残心を終えた父は細く息を吐くと、無駄のない動きで鞘に納刀した。
居合道と剣道は全くの別物とはよく耳にしていたが、まさにその通りだった。
何故だかその時、私は無性に竹刀を振りたくなった。
久々に錆び付いた自分の腕を鍛えたくなった。

「やっぱり腕が鈍ってるかな。次の動作にいける程、集中力が続かんわ。」

頭を掻きながら反省するように力無く笑う父。
そしてテーブルのワインを一口飲むと、慣れた手つきで白木に包まれた刀を袱紗にしまい始めた。
体中を強ばらせていた緊張感もだいぶ抜けてきたのを感じ、私も席につく事にした。
たった一瞬で疲労した体をソファーにうずめると、
私は背中に貼りつくほどの汗をかいている事に気付いた。
空調もだいぶ暖気になってきたので私はジャケットを脱ぎソファーの背もたれに掛けたが、
まだ少し体が火照っていたのでワイシャツのボタンを外し、腕捲りをした。
袱紗の紐を結い終えた父は私を見ると何かを思い出したかのようにハッとした。

「そういやお前に渡すものがあったんだ。すっかり忘れてたよ。
 お前が刀を振るとこを見たいだなんていうから。」

居合の演武を見せたいと言ったのは父のハズだったが、そこは敢えて黙っておくことにした。
私はてっきりこの刀の事だと思っていたがどうやら違うらしい。
考えてみればさもありなん。
まだ若い刀匠が打った刀と言えど、そんなに安価なものではないはずだ。
それに真剣ともなれば譲渡となれど手続きが何かと面倒だし、何より私が困る。
どのように手入れや管理をすれば良いのか全く分からず、手に余り過ぎる代物だ。
父はもう一口ワインを口に含むと「ちょっと待ってて。」とだけ言い残し、
再び例の部屋に消えていった。
私はまさかそれはないだろうと先程抱いていた懸案事項を思い出し萎縮した。
そんな不安を払拭するようにワインを大きく飲み干した。

数秒後、今度は少し大きな桐箱を抱え父は部屋から出てきた。
内心安堵しつつも、父が持っている桐箱の中身が気になった。
父はそれを地面に起き蓋を開ける。
私は中身を見てまた息を飲んだ。しかし先程くらい驚愕したわけではない。
その箱の中身には白木ではなくきちんとした拵えの日本刀が大小、
つまり太刀と脇差しが入っていた。
私がさほど驚かなかった理由はそこではない。
その大小の刀からは先程の若い刀匠が打ったという刀のように
殺気にも似た威圧感が感じられなかったからだ。

「刃引きの刀、でございましょうか?」

憶測は事実だったらしい。
父は軽い調子で「そうだよ。」と言うと、無造作に太刀を掴むと私に投げ渡した。
いくら刃引きの刀と言えども真剣と同じ、いや拵えがきちんと成されていれば
それ以上の重量がある。
私は危うく太刀を落としそうになったがしっかり抱くように掴み、
居合の心得がある割には刀剣の扱いが些か乱暴な父を睨んだ。
しかし父は悪びれる様子もなく「抜いてみ?」と、親指を立てて微笑んだ。
私は父に言われる通りにゆっくりと鞘から引き抜くと、
精錬された鉄鋼のみが持つ輝きを放った刀身が姿を露わにした。
先程の魂を縛り付けるような高圧的な真剣とは違い、
宝玉のような華麗さを兼ね備えた太刀は、まさに芸術品の域だ。
惚れ惚れするような曲線を描く刃紋を持つ刀身を真上に掲げ、
私は思わず感嘆の溜め息をついた。そして刀身の根元に彫り込まれた文字に気付く。
その一文字一文字を指でなぞるように読み上げた。

「五郎入道正宗」

最後の二文字を読み上げた時に、何故だろう。胸が熱くなった。
この世に生を受け、物心ついた頃から慣れ親しんだはずだったが、
その真意までは探るに及ばなかった。ただ自然にあるがままを受け入れてきたのだ。
しかし今、この刀身に刻まれた二文字を見て全てを理解した。
この刀が私だ。

「人は生きている限り必ず傷付き、時には誰かを傷付ける。
 それは望まなくても起こること。傷付き傷付け、いわば人というのは刃物のようなものだ。」

父の声で我にかえった私は、視線を目の前にいる今や尊敬の念さえ覚える男性に向けた。
グラスを傾け、微笑みを浮かべたまま父は語り続ける。

「だからせめて自分の息子には、人を傷付ける刃物ではなく、人を護る刃物になって欲しい。
 そんな思いを込めて日本刀の中でも業物中の業物、銘刀『正宗』から名前を貰った。
 …それがお前だ。」

それまでグラスの中でワインを転がし微笑みを浮かべていたが、
ふいに私と目を合わせるとグラスをテーブルに置き、真剣な眼差しになった。

「24年前にお前を捨てたオレがまともな事を言うなんて馬鹿らしいかもしれない。
 でも、それでもオレが親としてお前に残せたのは、お前の名前だけだ。
 オレの事や今日の事は忘れても良い。ただ、今言った事だけは覚えていて欲しい。」

私は父の言葉を聞きながら、刀を鞘に納め両手で握り締め先程のように額に押し頂いた。

「26年前にお前が産まれた時、オレが願った事は今も変わらない。
 その証拠としてお前にこの刀を贈る。」

私が『正宗』と名付けられた理由か今、父によって知らされたが、
不思議な事に私はその理由をずっと前から知っていたような気がする。
何故かは分からない。
ただ、産まれた時から備わっていた本能のように私の精神を支える根底に刻み込まれていた思い。
これまで幾度と無く悲しみが襲ってきた時や辛く挫けそうな時に、
倒れ込まないよう私の背中を押してくれた。
私を私たらしめてくれたのが、父の思いとこの名前だった事に今更ながら気付かされた。
人が人に対する切なる願いは、鋼のように屈強なものなのだとしみじみ悟った。
私は額に押し頂いた刀を離せずにいた。
小刻みに震える両手でわかってしまうかもしれないが、父の目の前で情けない姿を見せたくない。
一日のうちに二度も涙を見せる息子の醜態は流石に隠しておくべきだ。
父は今日の事や自分の事は忘れても構わないと言ったが、どうして忘れられようか。
私にとっては今日が始まりの日だった。
今日はこれから父との思い出を築いていく大切な日なのだ。
いつまでも刀を額に押しつけている私をよそに、父は自分のグラスと私のグラスにワインを注いだ。

「しかし、お前を見ているとつくづく母さんの育て方が良かったんだって思うよ。
 ちょっと頑固だが礼儀は正しい。美鈴好みに育てたんだろうな。」

私は父に顔を見られないように俯きながら、丁寧に木箱へと戻した。
そして素早く目元を手の甲で拭いた。
そんな私を気遣ってか、父は目の前のグラスだけを眺めていた。

「そんなに口うるさいわけではございませんでしたが、躾には厳しい人でした。」

どうせ顔はくしゃくしゃで隠しようがないだろうが、せめてと思い声だけは平静を装った。
ちなみに美鈴というのは母の名前である。
父の口から母の名前を聞くのは、何故かくすぐったく感じる。

「そうだろうな。傲慢で頑固で自己中心的で。
 でも内面は思慮深くて思いやりのある優しい女性だったよ。
 お前が剣道をしていたって事は昔と変わってないって事だな、美鈴は。」

顔には微笑みを浮かべたままワインを一口流し込む。
少し酔いが回ってきているのか、目尻が徐々に下がってきている。
私は父の言った意味が上手く理解出来なかった。

「私が剣道をしていた事と母が優しい事と何か関係があるのですか?」

私が小学校に上がったと同時に、母は何も言わずに近所にある剣道道場に通わせ始めた。
そして応援するわけでも辞めさせるわけでもなく、
剣道部がある中学校に上がるまで通わせ続けた。
確かに試合を見ても感想を述べるでもなく剣道に励む私を
無気力に眺めるだけの母を他の父兄と比べ、不思議に思った時期もあった。

「お前に剣道をやらせたいって言うオレに美鈴は反対してたんだ。
 そんな乱暴なのはやらせたくないって。
 まだお前が産まれる前なのにいつも喧嘩してたよ。
 でも美鈴はオレの言ったことちゃんと覚えていてくれてたんだ、と思ってね。
 離婚してオレの事が憎いはずなのに一つだけ要望は聞いてくれたみたいだ。」

私は驚きつつも、母の態度に合点が入り納得した。
父が母を優しいと言ったのにも頷ける。確かに母は父を憎かったのかもしれない。
あの人の性格なら思い出したくもないはずだ。しかし、母はわかっていたのだろう。
別離はしたが私にとって父は唯一無二の親だということを。
だから私に剣道を習わせたのは、傲慢で我が儘な母の精一杯の譲歩だったのだ。
きっと父も理解しているのだろう。
自分が残していった思い出が詰まっているはずの代物が、全て処分されたことを。
そこまで母の性格を熟知しているなら当然だ。
しかし、そんな母が唯一残したものは『思い』だったのだ。
父から息子への思い。嬉しくないわけがない。
私はその話を聞いて、とても重要な事に気付き急いで鞄の中を開けた。
母が残した父の面影はもう一つある。しかも形として残った物が。

「もしかしてこの本は父上の物ではございませんか?
 幼い頃に押し入れの奥から出てきたものです。」

悩んだとき、落ち込むとき、
迷ったときに激を飛ばし生きる指標を示してくれた表紙が擦り切れた本、
新渡戸稲造著『武士道』。
このたった数百頁の紙を束ねた物を父替わりに敬い肌身離さず大事に持ち歩いてきた。
それを知りつつも母は取り上げようとしなかったという事は、
これも母から父に対する一掴みの優しさであろう。
私が両手で持った本を、父は大きく見開いた目で見詰めた。
珍しい物を発見して喜びを露わにする少年のような表情だ。

「それはまさしくオレが残していった本だ!こりゃ驚いたな!
 …しかし、表紙を見るからにだいぶ大事にしていたようだな。
 …そりゃ相手さんに悪い気がするな。」

満面の笑みを曇らせ、バツが悪そうなはにかみ顔でワインを一口飲む父。
後半の父が言わんとする意味がわからなかった。
相手さんとは誰の事だ?
そして私にプレゼントすると言った刀が入った桐箱を見て、今度は溜め息をついた。

「考えてみたらこれを持って帰ったら気を悪くするに決まってるわな。
 オレも馬鹿だな。もっと目立たない物を贈れば良かったか。」

意味がさっぱり掴めない。父は一体、何について嘆いているのだ。
反応に困って無表情に構えていた私に、頭を掻きながら照れたように父は私に尋ねた。

「あーほら、あれだ。新しい父ちゃんに何か悪い気がしてな。
 前の親父が出しゃばって、って思われてもヤダし。
 ていうか、よくオレんとこに来るの許したな?新しい父ちゃんはどんな人だ?」
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Comment

 秘密にする

● 
まぁ、離婚の原因はともかく…イイ父ですね~。
・・・ため息が出ますよ、あまりの違いように。
| URL | 2008/10/29/Wed 10:59[EDIT]
● 
>>夢さん
理想ですよ、あくまで理想。
私にとっても理想ですね、このパパンは。
こんなサービスマンになりたいものです♪不倫は別として。
要人(かなめびと) | URL | 2008/10/29/Wed 13:39[EDIT]
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さくらと空 
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